井形慶子さんスペシャルエッセイ >> バックナンバー
田園の面影を日常に加える
2006年9月1日(金)
イギリスで乗馬は、大人から子供までが楽しめるスポーツとして特に女性に人気がある。専門のディーラーや乗馬雑誌の情報欄を利用して自分の馬を買う人も多く、馬を買っても放牧地のない人は、カントリーサイドにある乗馬学校の飼育サービスを依頼し、世話を頼む。ちなみに馬1頭の値段は3000ポンド前後(約57万円)と意外に安いが、えさ代は1日20ポンド(約3800円)もかかる。それでも馬に乗ってゆったりとカントリーサイドを歩きたいと考えるイギリス人にとって、馬を持つことは本格的な田園生活の始まりなのだ。
ヨークシャーで知り合った元騎手は、小さな村で古い農家に暮らし、乗馬スクールをひらいていた。宿泊客やビジターを教える1時間のプライベートレッスンは20ポンド(約3800円)。ハイシーズンの夏期になると連日ビジターがやって来て彼の乗馬学校はフル稼働になる。
彼は生徒の馬を2頭預かっていた。「馬の持ち主は週末になると親子でやってきて、愛馬にブラシをかけたり、エサをやったりしている。まだ13歳の少女は、両親がプレゼントしてくれた馬に会うのが楽しみで、毎週やってきては、時々僕の仕事も手伝ってくれる。50代の僕が13歳の少女と語らいながら馬小屋の掃除をしているんだよ」
彼の2人の子供はとうに独立してそれぞれ別の町に住んでいる。それでも妻と2人で暮らすこの家で、彼は自分のライフワークだった乗馬を通して思いがけない楽しみと収入を得ていると語った。
一方、妻は得意の料理の腕を生かして、地元の鴨猟グループから予約の入った時だけ自宅のダイニングルームをレストランにして団体用の料理を作る。そんな彼女を隣町に住む学生時代からの友人が手伝っていた。
だが、この夫婦はとりたててこんな暮らしを目指してきた訳ではない。彼らはただ好きな場所に住んで自分達ができることを始めただけだ。
イギリス人は年齢に関係なく新しいライフスタイルにチャレンジすると前に書いたが、その背景には人に負けない特技や趣味を若い頃から大切に育む姿勢がある。親から習ったお菓子作りや手芸は、歳をとってからもボランティアワークで何かを提供したり、小さな店を始めたいと考えた時、有形無形の個人の資産になっている。
ところで彼女のダイニングに並ぶ食器はウイリアム・モリスのデザインだった。モリスはヴィクトリア朝時代の偉大なイギリスのデザイナーで、近代デザインの創始者といわれ、詩人、社会思想家としても有名だ。ヴィクトリア時代、大英帝国は産業革命のさなかで、機械化による大量生産の品が世にあふれいた。そのことに疑問を感じたモリスは、「すべての装飾の仕事には芸術的監督が必要である」としてモリス商会を設立し、自らの「作品」を商品化として高品質なものを供給するシステムをつくりあげた。
モリスのデザインは、生活に密着した身の回りのものにあらわれ、植物、花、鳥など自然界をモチーフに創作したテキスタイルデザインや壁紙は、今でも人気を博している。 「私達が幸せに見えるのは、モリスの食器のように、自然の中に身をおいて毎日を楽しんでいるからよ」と料理を作りながら妻は満足そうに言った。
余談になるが、イギリス人の家をのぞくと、モリス風の草花が細かく描き込まれたカーテン、クッション、タオルなどのテキスタイルが目に入る。英国全土に展開されているナショナルトラストのショップに並ぶバッグ、雑貨の中にはそんなイギリスの自然を感じさせるデザインが多く、丸ごと買って日本に持ち帰りたい衝動にかられる。 訪れた街でショップをのぞいては、自分のためにいつも何か買うことも、イギリス旅行の愉しみのひとつ。色、柄、デザイン、どれもインテリアに加えるだけで、元騎手の暮らす農家を通りぬけていた、あの爽やかな風を呼び起こしてくれる。
